犬や猿と話せるようになる?

皆さんは動物たちの食事が概して短時間で終わることをご存じでしょうか。例えば犬の食事は基本的には丸呑みで、むせたり酸欠にならないかと心配になるほど休まず飲み込み続け、ものの2,3分で終わってしまいます。でも心配ご無用、動物では食物は口と咽頭を通り、空気は鼻と喉頭を通るようにできていて、食物や水を飲みこんでいる間も呼吸し続けられるのです。

動物では食物の通り道(咽頭)と空気の通り道(喉頭)は形態的にほぼ完全に分かれているため、嚥下のたびに息を止める必要がある人間とは違って、すばやく食物を平らげることができます。人間のように息継ぎを繰り返しながら食事をすると、時間がかかり過ぎて他の動物に食物を先に食べられたり、自分自身が襲われたりする可能性が高くなるからです。
嚥下しながらでも呼吸ができるように、動物のノドは巧みに進化したのです。

人間の咽頭は、機能的にみて上咽頭(鼻咽頭)・中咽頭(口腔咽頭)・下咽頭の3つに分けることができます。中咽頭は直接口から見える、空気も食物も通過する部分です。
一方、動物の咽頭には上咽頭と下咽頭しかありません。簡単にいうと鼻の突き当たりから直接喉頭に空気が流れる構造になっていて、食物と空気が交差する部分である中咽頭が未発達なのです。

この構造は、気管に食物が誤進入しないことにとても役立っています。人間の赤ちゃんはこの構造がまだ残っていて、母乳を飲み込みながらでも、むせたりすることなく呼吸ができます。しかし成長とともに中咽頭が発達して喉頭が下降すると、このような芸当は不可能となります。人間は動物よりもずっと誤嚥しやすい動物といえます。

人間は道具や火を使用する知能を持ち、自分の体を守る術(すべ)を得られるようになったため、自然界で無敵の存在となりました。食事中に天敵に襲われたり競合する他の動物から食物を横取りされることも少なく、急いで食事を済ませる必要はなくなりました。
息継ぎのために食事にかかる時間が多少延びても、生存に不利とはならなくなったのです。

ただ、まずいことに自分の体を守る術は、他者への攻撃のための術ともなります。人間の顔面骨の形は、拳や棍棒で殴られた時に脳のダメージが最小になるように進化したという説もあるくらい、人間同士の争いは絶えなかったといわれています(現在もです)。人間自身が人間の天敵となってしまったのです。人間同士が殺し合っていては、種の繁栄は得られません。そこで争いを平和的に解決するために、お互いの意志疎通が重要となります。

動物は、身振りだけではなく声で仲間に何かを伝えます。鳥の美しい鳴き声は求愛を、ライオンの咆哮は威嚇を、オオカミの遠吠えは、見えない仲間に自分の存在を知らせる意味があります。動物を飼っている方ならおわかりでしょう。

犬はいろいろな声色を使って、飼い主の気を引こうとします。逆に飼い主の言葉を聞き分けて、お座り、お手、おかわり、伏せ、待て、おしっこ、うんち、などの指示に従います。
犬は自分の名前を聞くと飼い主でなくても振り向いたり近づいたりします。話者が違っていても単語を理解できる知能を持っているといえます。これは猿でも同様です。

しかし、理解できる言葉であっても犬や猿は一言も話すことができません。犬の知能は人間でいうと1~2歳児に相当するといわれています。人間の2歳児ならかなり話すことができますが、犬や猿が話せないのはノドの構造に人間と決定的な違いがあるからです。

言葉を話すためには、声帯の振動で生じたブザーのような単純な音声が、咽頭や口腔の形に応じて短時間に特定の振動数の音が強められたり弱められたり、こま切れにされたりして大きく変化する必要があります。中咽頭がないと、声帯原音はあまり変化を受けないまま喉頭から鼻に抜けてしまい、複雑な音声にすることができません。言葉を話すためには音声が中咽頭を通って口腔へ抜けることが必須です。普段あまり意識はしていませんが、言葉を話す際、人間の舌は激しく動いて声帯からの音声に修飾を加え続けているのです。

動物は言葉で指示されたことを理解できますが、話すことができません。言葉の入り口である耳や脳があっても、中咽頭が未発達なために動物では言葉の出口を持たないというわけです。人間の乳児が言葉は分かっているのにうまく話せないのも、これに近い状態といえます。

中咽頭が発達すればするほど、食物が喉頭から気管へ誤進入する可能性が高くなります。
また嘔吐したときに、胃酸が気管に流入して肺炎をおこす危険性も高まります。このようなリスクを冒してまで、話し言葉の獲得のために中咽頭は発達しました。そして言葉による意志伝達が人間同士の争いを平和的に解決し、種として協調して繁栄するための大きな飛躍となったに違いありません。嚥下や呼吸の不利を補って余りある話し言葉の獲得ために、人間のみがあえて中咽頭を発達させたのではないでしょうか。

さて、人間では誤嚥を防止するために、わざと中咽頭を縮めて喉頭を鼻の方へ引き上げる手術が行われることがあります。逆に犬や猿で中咽頭を人工的に作成して喉頭を引き下げるような手術を行うと、片言でも言葉を話せるようになるのでしょうか。オウムや九官鳥は人間とは全く違った発声法で流暢に話しますので、あながち夢物語ではないかもしれません。
院長は野生の猿(温泉に入るので有名)を撫でて思いきり睨まれた楽しい経験があります。
犬や猿に言葉で叱られるのはもっと楽しいかもしれません…。皆さんは真似しないで下さい。

ちなみに嚥下の嚥という字は口偏に燕(ツバメ)と書きますが、英語のツバメという意味の単語 swallow にも嚥下するという意味があるのは面白いですね。